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野田市の地下水

野田市は、北東を利根川、西を江戸川、南を利根運河と

三方を河川と運河で囲まれています。

利根川

市の東を流れる利根川は、別名「坂東太朗」と呼ばれ、その延長は332キロメートルで全国第2位、流域面積は16,840平方キロメートルで全国第一位の大河です。

現在、その流れは渡良瀬川や鬼怒川などと合流して太平洋に注いでいますが、350年ほど前は、古利根川や庄内古川などを南下して東京湾に注ぎ、下流の鬼怒川や小見川などは別系統の川でした。

江戸時代以降の、治水対策や新田開発のほか、関東の水運路形成、河川による境界の解消などを目的に、たび重なる流路替えを行い、現在の姿になりました。

江戸川

市の西方を流れる江戸川は、江戸時代初期に造られた川で、以前は太日川がもっと西より流れていました。

幕府は江戸やその周辺を水害から守り、新田開発を進めるために、当時東京湾に注いでいた利根川の流れを東に移し、現在の流路としました。

しかし、その後も利根川や渡良瀬川は、洪水のたびに流れを変えたので、新たに旧関宿町から金杉(埼玉県松伏町)までの約20キロメートルを開削し、新川を作りました。

これが現在の江戸川で、正保元年(1644)に竣工したと言われています。

この開削によって、東金野井と西金野井(埼玉県庄和町)、東宝珠花と西宝珠花(庄和町)は両岸に分かれ、地名から当時の様子をうかがわせます。

利根運河

明治23年2月25日、運河の全線に通水され、5月10日、全工事が終了、6月18日に竣工式が行われました。

以来、一日に100隻を超える船でにぎわっていましたが、鉄道の開通や、道路網の整備による自動車輸送の発展、また、洪水等の災害による堤防補修などによって、次第に会祉の経営も悪化していきました。

昭和16年(1941)に経営の悪化する「利根運河株式会社」から、利根川の洪水を分流するという目的で、政府が約21万5,000円で買収しましたが、やがて利根川と運河の接点を埋め、利根運河は完全にその使命を終えました。

しかし、昭和50年(1975)6月、導水路としてふたたび運河は復活し、平成2年には、利根運河通水百年を記念するさまざまなイベントが開催され、正式な名称も「派川利根川」から「利根運河」に改められました。

両河川の水は更新世や沖積世に堆積した厚い地層に涵養され
帯水層中には良質な地下水が多量に存在します

野田市は、北東を利根川、西を江戸川、南を利根運河と三方を河川と運河で囲まれています。両河川の水は更新世や沖積世に堆積した厚い地層に涵養され、良質な地下水となって帯水層中には多量に存在します。

野田の醤油業者は原料水を当初は掘井戸と江戸川に求めていましたが、1903(明治36)年頃から地下水の開発をすすめやがて製品を均質化するため、1921(大正10)年にはほぼ全量を地下水に切り換えました。良質で豊かな地下水は野田の醤油産業を全国一まで大きく発展させました。

野田市内の災害非常用井戸

災害で水道・電気などのライフラインが断絶されたとき、私たちは想像以上に困難な生活を余儀なくされます。中でも命と生活にとって不可欠な飲用水を確保することは、最も大切で最初に行動しなければなりません。

浅野さく泉管工株式会社は、市内2箇所(本社・資材置場)に自家発電機を備えた深井戸を所有し、非常時には良好な地下水を市民にご提供いたします。